『太陽をかこう』ブルーノ・ムナーリ

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あらすじ

朝の太陽、ペンで描かれた太陽、顔のある太陽、雲間から見える太陽、宇宙の中の太陽。
ひとつしかないのに、沢山ある太陽の姿。


インプレッション

白い太陽

「太陽を描きましょう」と言わずとも、子どもたちは太陽を描くものです。むしろ、「太陽は描かないように」とでも言わない限り、子どもたちは太陽を描き続けるでしょう(それでも中には、太陽を描く子どもがいるはずです)。だから、このブルーノ・ムナーリによる『太陽をかこう』は、いつしか太陽を描かなくなった──それどころか絵自体を描かなくなった──、大人たちのために作られた本、と言えます。それでいてムナーリは、「なぜ太陽を描かなければならないのか」と説いたりしません。「うまく太陽を描くコツは……」といった説明もありません。タイトルで『太陽をかこう』と謳っているのに、その辺の事情には、まったく触れません。いいセンスしてます。さすがデザイナーです。

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勅使河原蒼風による太陽(部分)

絵の手引き書につきものの、デッサンやパース、光源についての話も出て来ません。でも、何も問題ありません。そもそも太陽を描こうとした瞬間、デッサンもパースもほぼ意味を失ってしまいます。光源については、言わずもがなです。そういったテクニカルなあれこれは、太陽を前にすると無効化されてしまうわけで、ヘンに知識を持った大人たちは、かえって戸惑うかもしれません。けれども、おそらくムナーリの狙いは、それです。まっさらな状態で太陽を描きましょう、と誘っているわけです(さらに踏み込んで書くならば、太陽に限らず)。

しかし、いざ太陽を描こうとすると、手が止まってしまいます。何を手がかりに描いたらよいのか、分からないからです。そこでムナーリは、とりとめなく太陽にまつわるエピソードを語り、太陽が視界に入るシチュエーションを示し、あるいは太陽をモチーフとした様々な絵画を見せ、ときにラフなスケッチを描いてみせます。一見すると脈絡がないようでいて、トータルでは筋が通っています。「好き勝手、自由に描けばいい。例えばこんな風に」と、間接的に説明しているわけです。なかなかどうして親切な人です。それぞれの太陽を、それぞれの方法で、のびのび描いてごらん、と暗に示しています。

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このブログは絵本を紹介するブログです。一方で『太陽をかこう』は、一般的な意味では絵本に分類されません。ただし、絵についての本ではあります。それも、まじめにおかしな絵の本です(こういうタイプの手引書は、あまりありません)。そして、まじめにおかしな点は、多くの絵本にも言えることですし、絵を抜きにして絵本はありえませんから、ここに紹介することにしました。そうそう、ムナーリは普通の絵本も出しています!

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ところで。青空に浮かぶ太陽は、しばしば赤やオレンジによって彩られます。イラストでは特にそうです。が、大人になって改めて太陽を描こうとすると、「晴天の太陽って、白いのでは? 日の出や日没を別にしたら」ということに気づかされます。実際、カメラで昼間の太陽を撮影したならば、そこには白い太陽が写っています(白飛びもありつつ)。なぜ子どもの頃は、太陽を白く塗らなかったのでしょうね?

作品情報

太陽をかこう (至光社国際版絵本)

太陽をかこう (至光社国際版絵本)

Drawing The Sun (About the Workshop Series)

Drawing The Sun (About the Workshop Series)

ブルーノ・ムナーリについて

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ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari。1907~1998)は、ミラノ出身のアーティスト、デザイナー、作家です。後期未来派のアーティストとして活動をはじめ(戦後、未来派から離脱)、雑誌社のアートディレクター、グラフィックデザイナーの職を得ます。息子のために絵本をつくり、それが絵本作家としてのデビューにつながりました。1948年、MAC(Movimento Arte Concreta)を結成します。やがてアート領域での創作活動と並行して、テレビ、照明器具、エスプレッソマシンなどのプロダクト・デザインに携わるようになります。デザイン教育やワークショップも精力的にこなし、その間には幾多の書籍を著しました(『モノからモノが生まれる』、『芸術としてのデザイン』、『ファンタジア』など)。日本との縁もあり、武満徹、亀倉雄策、瀧口修造らとの交流がありました。